Oct 09, 2009
白髪染めを注文してみる
白髪染めを購入してみると、自分もこんなものを買っ年になったかと思ってしまう。実際には、若い人も購入している場合もありますので、そのような考えをするのは自分だけなのかもしれないが、それでも白髪染めは、若い人には用はないのだ。購入をお考えの時点で年齢が上がってなぁと感じてしまうのは仕方ないか。円形脱毛症の原因は、自律神経の乱れを与えることができるからです。精神的なストレスがあると体が拮抗しています。交感神経の働きを活発にし、ストレスと戦う準備をするんです。この時、心臓や肺速く動かしたり、体温が上がってんですよ。適度なストレスは体に必要なことです。やる気が起きてもいますからね。しかし、過度のだ円形脱毛症になるんですよ。
フランスの高級ブランド、ルイ・ヴィトンが、東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城のカキ養殖復活の支援に乗り出している。背景には、生ガキを愛する日仏の美食文化と、両国の養殖業者、研究者の40年以上にわたる交流があった。(黒沢綾子)
リアス式海岸が続く三陸・舞根(もうね)湾(宮城県気仙沼市)。静かな海上には、新しい養殖いかだが30台以上浮かび、その下で幼いカキが育っている。
「震災直後は海に生き物の姿がなかったけれど復活は早いね。小さなカキなら来春には食べられますよ」
そう話すのは父の代からカキ養殖業を営む畠山重篤さん(68)。「豊かな漁場づくりには森、川、海の一貫した環境保全が重要」と訴え「森は海の恋人」をスローガンに漁民による植樹活動を先導してきたエッセイストでもある。
大津波で経営する「水山(みずやま)養殖場」の施設は全壊、船もいかだも流失した。「この西舞根地区には家が52軒あったんですが、44軒が流された。廃業する養殖業者は全体の約3割にのぼりそうです」と説明する。
震災から約1カ月後、畠山さんは意外な相手から支援の申し出を受けた。仏高級ブランド、ルイ・ヴィトン。「一瞬、なぜ?と思いました」と振り返る。
ルイ・ヴィトンの社員らは東北の惨状を知り、四十数年前のエピソードを思い出していた。仏名産のブルターニュのカキがウイルス性の病気で壊滅状態に陥ったとき、窮地を救ったのが宮城県の北上川河口で生産された種カキ。昭和46年、仏に3360トン、金額で約7億5千万円の宮城種(みやぎだね)が輸出されたという。
ルイ・ヴィトン家5代目当主、パトリック・ルイ・ヴィトンさん(60)もその経緯を「当然知っていましたよ。わが家は皆、カキが大好きでね」とうなずく。7月末に来日した際、畠山さんに「ルイ・ヴィトンと日本の絆(きずな)は強い。再起のお手伝いができて光栄です」と語りかけた。
畠山さんは「日本人には世話をかけた相手にお返しをする義理人情がありますが、それは世界共通だった」。同社からの支援金は三陸の漁業復興とともに「森は海の恋人運動」の推進にも使われている。
「生き物を扱う仕事は季節のサイクルで動く。政府の悠長な決定を待っていたら、1年を棒に振ってしまうところだった」と畠山さん。6月には例年通り、気仙沼湾に注ぐ大川上流の山で植樹祭が行われた。
もともと「森は海の恋人運動」は25年前、畠山さんが仏のカキ事情を視察したことが発端だった。川が海に注ぎ込む汽水域を見て、生態系の豊かさに衝撃を受けたことが、赤潮による汚染に悩む故郷の海の再生のヒントになった。
畠山さんは感謝の気持ちを込めパトリックさんに提案をした。「再来年の春、わが家に招待しますよ。震災前と同じようにおいしいカキを用意して…」。もちろん、申し出は快諾された。「愛用のナイフ持参でうかがいますよ!」
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■元枚方宿鍵屋資料館長・平尾賢二さん(69)
江戸時代、京都と大坂を結ぶ「京街道」の宿場町として栄えた枚方市に、当時の面影をしのばせる船宿「鍵屋」が残っている。
現在は「枚方市立枚方宿鍵屋資料館」として、地域の歴史教育に活用されている。その館長を平成19年から20年まで務めた。
平尾さんがまず、案内してくれたのは、鍵屋の主屋。江戸時代の船宿の様子を伝える貴重な建物だ。
客を泊めた部屋が3つ。その近くに、腰をかけて軽食をとるなどするための筵(むしろ)敷きの場所があり、当時、この主屋で眠ったり休んだりした人たちの息づかいが伝わってくるよう。裏口を出れば淀川の乗船場に通じており、川に近い開放的な雰囲気も伝わってくる。
「私はもともと枚方の生まれではないのですが、ここの歴史を知るうちに大好きになりました」と平尾さん。
生まれは大阪市都島区。教員として枚方第二小学校に赴任した昭和40年代後半から枚方に住んでいる。59歳で退職し、資料館に勤務するようになった。
現在の淀川の様子からは、多くの船が行き交っていたとは想像できないが、「1日に千艘以上の船が行き交っていたのですよ」と平尾さん。「そんなに使われていた理由は、人馬による陸上輸送よりも安価だったからなのです。それに、淀川は比較的流れが穏やかで、水上輸送に適していたのです」
そんな淀川の流域で、枚方宿は京都と大坂の中間あたりにあり、旅行者や荷物の中継地として栄えた。17世紀の初めごろに設置されたと考えられ、天保14(1843)年の記録では、約1・5キロの間に約70軒もの旅籠(はたご)があり、旅人を迎えていた。
主屋の解体修理の結果、2階の根太(床板を受ける横木)に「文化八年(1811年)」の墨書が発見された。これは改築の年で、創業は17世紀後半と推定されている。主屋は平成9年、同市の有形文化財に指定された。
この主屋を中心として、当時の生活をしのばせる出土物などを展示しているのが現在の「枚方宿鍵屋資料館」。「この資料館は地域の歴史を知るために絶好の場所。大勢の人に興味深い歴史を知ってほしい」と平尾さん。
枚方宿をシーボルトが通ったときの記録も残っている。「枚方は大坂の人たちが遊楽地としてたいへんよく訪れる大きな村。ここで昼食をとり、伏見への旅を続けた。枚方の環境は非常に美しく、淀川の流域は私に祖国のマインの谷を思い出させるところが多い」などと書いている。
「三十石船の船頭が櫓(ろ)をこぎながら歌った歌が残っているんですよ。ちょっとお聞かせしましょうか」と平尾さんは言って、張りのある声で歌ってくれた。
♪ここはどこよと船頭衆に問えばここは枚方鍵屋浦 鍵屋浦には碇(いかり)はいらぬ 三味や太鼓で船止める
枚方宿に近づけば三味線や太鼓が聞こえてきて、旅人が船を下りたくなるというような意味で、にぎやかだった当時の様子が伝わってきた。(袖中陽一)
【メモ】宿(しゅく)
枚方宿などの「宿」は、現在の「宿」ではなく、「宿駅」のこと。「宿駅」とは、荷物や人を運ぶ際の中継所。江戸と京都の間には「品川宿」から「大津宿」まで53の宿があり、人馬の中継が行われた。「東海道五十三次」は江戸から京都までを数えたもので、江戸から大坂までを数えて「東海道五十七次」とする説もある。
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